日常エッセイ

「記録」と「記憶」

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武邑は、「記録」と「記憶」を明確に区別している。

記憶の本体は、記録の保存ではなくその生成の過程にこそあるといえる。・・・中略・・・物財としての情報記号を何らかの価値に変換する仕組みが生成され継承されるとき、記録ははじめて記憶となる。いいかえれば記憶とは、無機物にすぎない記録に意味による経験的認知などが作用する意識的かつ能動的な作業である。そして、かかる記憶を生成し継承する作業が何らかの目的を帯びて集団規模で行なわれる現象が、文化の本体なのではなかろうか。     (武邑 2003)

記憶媒体に蓄積された情報を「記録」、そして私たち人間の頭の中に蓄えられている情報を「記憶」と分けて考えてみると、確かに記録と記憶では大きく意味が異なりそうである。そして、これまでの本稿の流れをふまえて言えば、「記録」はメディアで行うことができるけれど、「記憶」はそこに人間が介在しなければ成立しない。例えば、私の幼稚園における思い出の中に、園庭で走り回って遊んでいるとき友達とぶつかり鼻血を出したことがある。その事件は思い出として確かに私の「記憶」に残っている。そして、もしこのときの映像が残っているとしたならば、私はこのときの様子を正確に知ることができる。なぜそんなにもあわてて走り回っていたのか。どの程度の速さで走っていたのか。ぶつかったのはどんな子だったのか。鼻血が出たのは確かなのだが、それはほんの少量であったのか、それとも結構大量だったのか。処置してくれた先生は誰か。私は泣いたのか泣かなかったのか・・・・・。これらは「その事件」の正確な「記録」となり得る。

しかし、私は「その事件」の正確な記録がほしいわけではない。ぶつかったのは誰で、鼻血がどれほど出たか、そして処置してくれた先生は誰だったのかを知ることができても、私にとっては何の意味も持たない。確かに私は現在、その先生の名前を知ることはできないけれど、私の記憶の中では「美人で優しい先生」として鮮明に存在している。もし、その時の映像を見たならば、鼻血を処置してくれた先生がごく普通の女性であり、私は失望するかもしれない。私にとって重要なのは、私の思い出に残っている先生が美人でとても優しかったということであり、実際に彼女が美人なのか否かはまったく重要ではない。私にとって必要なのは、「正しい情報」ではなく、私自身の中でデフォルメされたほのぼのとした「思い出」としての記憶である。そして、そのような記憶こそ現在の私のアイデンティティを形作るものである。

さらに、「記録」は脳のレベルで扱うことはできるが、「記憶」は身体的なレベルで扱わなければならない。換言すれば、デジタル的な側面は視覚や聴覚で受容し脳で処理できるのに対し、アナログ的な側面は身体全体の五官で受容し処理しなければならない。脳で扱われる「記録」はネットワークで結びつけることが可能であり、グローバルな「知」のネットワークを形成することが可能である。一方、「記憶」は身体性が伴うがゆえに個人的なものとならざるを得ない。つまり、「記憶」には個人的なストーリーを伴う。

主に脳で処理することができるデジタルな特質を持つ情報はネットワークで世界に結びつき、グローバルな「知」となる。そして、個々人の身体と深く結びついているアナログな特質を持つ情報は、個から個へとローカルな場において伝えられてゆく。もちろん、どちらが良いとは言えないのだが、少なくとも前者が急激な勢いで増殖している高度情報化時代には、アナログな特質を持つ情報を個から個へローカルな場において伝えてゆくということを決して忘れてはならないのではないだろうか。伝統芸能をデジタルで伝えようとする試みの中で、私はこのように考えるようになったのである。

引用文献:武邑光裕(2003)『記憶のゆくたて ─デジタル・アーカイブの文化経済─』東京大学出版会

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